コミュ障って・・・

コミュ障って・・・

国語科:桝崎 徹

生徒たちと話していると“コミュ障”という言葉をよく耳にします。その主語は、自分であったり、学校のクラス内の誰かであったりします。

どうやら彼らは「全面的な同意と共感を誇示すること(手を叩く、激しく頷く、笑い声を交えながら。)」を「コミュニケーションが成立」しているとみなし、「全面的な同意と共感を誇示する頻度が高く、よりそれを声高に表現し、時には相手の様子を窺い、共感を得るような意見を提供できる者」を“コミュ神”(・・・こんな言葉はないでしょうが・・・。一応、「コミュニケーション能力に秀でた神のような存在」という造語です)と見なしているようです。コミュニケーションがそのようなものだととらえていたら、それはたしかにしんどいと思います。

以前に読んだ本『わかりあえないことから~コミュニケーション能力とはなにか~』の中で、著者であり劇作家・演出家の平田オリザさんはコミュニケーション能力の“ダブルバインド”について書かれています。

企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、“異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見出すことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる”異文化理解能力(=グローバル・コミュニケーション・スキル)と、実はそれだけではなく“日本企業は人事採用にあたって、自分たちも気がつかないうちに、もう一つの能力を学生たちに求めている。そのもう一つの能力とは「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった“従来型のコミュニケーション能力”であるとされ、“いま、日本社会は、社会全体が、「異文化理解能力」と、「同調圧力」のダブルバインドにあっている”と指摘されています。

・・・話の範囲が大きくなりすぎたかもしれませんが、日常における同意や共感にさえ、「まぁそこそこ共感はできるけども、なんか違和感が残る」感じや「意味はあんまりよく分からへんけども、なんとなく腑に落ちた」感じ、「こいつとは全く意見が合わへんけども、それが面白くて話せる」関係等があったりして、それを言葉にしてやり取りを重ねていくうちに、お互いの理解が深まったり、違いを認め合ったり、合意を形成できるようになる。それを通じて、これからの自分が、今までの自分から変わっていくこと(それをトランスフォームと表現するのか、自己解体と表現するのか)が本来のコミュニケーションであり、つまりは学びだと僕は考えています。なにも変わらないのは、なにも学んでいないのと同じだからです。

少しでも異論を受けると、それを即「全否定」と受け止め、傷ついたり、自分からの意見の発信を止めてしまう。(分からないでもありません。それが青春時代なのかも知れませんし、僕だってこう見えても乙女座のA型です・・・。)

しかし、どうか100%の同意、100%の否定などと割り切ってしまわないで、人と人の中の同意、反論にあるいろいろなレベルの手触りのようなものをかみしめて欲しいと思っています。もちろん、これは自分に取っても、課題以外の何ものでもありません。

 

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