【教育の目的は子どもたちの成熟を支援すること!】
グローバル、AI、コロナパンデミック、、、
世界は大きく変わり、仕事の仕方、ライフスタイルも変わり始めています。
日本でも、文科省もこれまでの教育を変えていく方向に動き、学校の教科書も、大学入試も変わり始めました。
さて、では、私たちは、これから、どんな教育、どんな学びをしていけばいいのか?
その手がかりの一つとして、冒頭の見解を真っ向から表明されている『複雑化の教育論』(内田樹著、東洋館出版社)に学んでいきます。
その中で、これからの教育について、私たちなりに考え、当塾の教育システムとしてのLEADメソッドを形づくり、これから実践していきたいと考えています。
このコラムは、そのLEADメソッドの準備として、同書の内容をノートを取りつつ、考察をめぐらしていく記事になります。
内田樹先生は、御専門は、フランス現代思想、教育論、武道論、映画論などで、神戸女学院名誉教授で、凱風館という合気道道場を運営していらっしゃいます。
はじめに
*教育の目的は子どもたちの成熟を支援することであり、成熟とは複雑化することだ。
*複雑化
・子どもたちがこれまでみたことにない表情を浮かべ、聴いたことのない語彙を用いて語り始め、これまでしたことのないふるまいをするようになる
・「昨日までの自分」のままではいられない
・生物の幼生がそれまでの殻を脱ぎ捨てて、次の段階に変態するようなもの
*子どもの複雑化を素直に喜ぶことは大人の大切な職務の一つ
*複雑化は計測不能。
・「表情の変化」「手触りの変化」「雰囲気の変化」
*民主制:市民的成熟を要求する「よい制度」
教育のよい制度:一定数がまともな大人であることを必要とする制度
*教育に関わる「一定数のまともな大人」の頭数を一人でも増やしたい。
それがこの本を書いた最大の動機
☆以上が、序章の大事だと思われる部分のメモになります。
いかがでしたでしょうか?
特に大事だと思われる部分を赤字にしておきました。
教育の目的は、テストで点数を取ることや偏差値を上げること、はたまた学歴をつけることではなく、あくまで子どもたちの成熟であるとはっきり定義されています。
ここは、ものすごく大事なポイントだと思います。
LEADでやってきた学びを、上記の教育目的を意識してさらに磨いていきたいと思います。
第一講 複雑化の教育
【「学びの場」の第一条件】
*「学びの場」の第一条件:「居心地の良い空間」。
・そこを訪れる人に「優しい」、そこに来る人たちを「歓待する」
*学びにおいてもっとも大切なのは、きた人たちが「心を開いてくれること」
・オープンマインデッドな気持ちのなってもらう
・場の支援
〜神戸女学院の事例:ヴォーリズ設計の建物
【学校教育をはかる唯一のものさし】
*学びの場を設計するのは、教育にとって最も大切なことの一つ
*学びを場を整えて、子どもたちを知性的、感性的に「開かれた」状態にすること
*教育は、有用な知識や技術を効率よく子どもに伝えて、獲得された知識や技術を数値的に表示して、その点数に基づいて子どもたちを格付けするためのシステムだと信じている人が現代日本ではほとんどです。
*しかし、学校は格付けのための機関ではありません。
学校は、子どもたちの成熟を支援する場です。
・ですから、学校教育のすべての事案は「それは子どもたちの成熟に資するか?」という唯一のものさしによって考慮されるべきです。
【成熟とは複雑化すること】
*「成熟」≠量的増大(身長、体重、語彙、活動範囲、、、)
・複雑化すること
・昨日とは違う人間になるということ(例:呉下の阿蒙〜三国志)
・人格が多層化する。目の前の出来事を捉える時の視座が増えると立体視できるようになる。
・一筋縄では捉えられない人間になる
・「三日前の自分」+「今日の自分」〜人間としての厚みや奥行きが増す
*教師に求められるのは、子どもたちに「飛躍」をさせずに、漸進的な変化を経験させること。
自分の中にはそれまで気がつかなかったけれども、こういうところも、こういうところもある。それを自分自身で認めて、周囲もそれを承認する。そのプロセスをゆっくりと漸進的にたどる。それが「複雑になる」ということ。
・その複雑化のプロセスを教育プロセス全体で支援する。
・今の学校の仕組みの中には子どもたちの複雑化を支援する仕組みがありません。
*学校集団での「キャラ設定」
・「ラベル」:ジャイアン、スネ夫、のび太など
・とりあえず、居場所
・怖いところは、一度それを受け入れると、そこから出られなくなる
⇩
・「らしくないこと」を口にすると「黙れ」という圧力
複雑化する思春期の少年少女にとっては辛い
特に中高一貫校:高校の途中くらいで壊れてくる子が出てくる
・人間は日々複雑化してゆくものであり、複雑化して昨日と違う人間になることは、端的に「よいこと」であるということが今の中等教育では常識になっていない。「変わっていいんだよ」ということがアナウンスされていない。
・その時期の子供たちは変化する途中、昆虫なら脱皮していく途中にいる。
そういう時に、「自分らしく生きろ」と言って、単一の、スッキリしたキャラクターを演じることを強要するのはずいぶん残酷なこと。
・脱皮するには、周囲の支援が必要。剥き出しの裸になっている時に、「決して傷つけない」という保証をしてあげないといけない。
・全国の教員の方たちが一致団結して、子どもたちがより複雑なものに成長していくプロセスを支援しようということについて意思一致していただきたい。
【教育において最優先すべき知的資質】
*この四半世紀、日本人の知的水準は劇的に低下。知性の発言が制度的に抑圧されている。
・最大の理由は、「話を簡単にする人が賢い人だ」というデタラメをいつの間にかみんなが信じ始めたから。
*現実の問題のほとんどは、誰も正解を知らない問題。
・自分自身を複雑なものに高めて予測不能のことが起きても適切に対処できるように幅広く構えた方がいい。
・必要なのは正解を暗記することではなく、吟味すること。
色々な仮説を考えてみる。それらの仮説を同時並行に走らせる。結果を見る。
・「使える知力」は、話を簡単にする能力ではなく、複数の仮説を並行処理できるだけの「頭の中のスペースの大きさ」。
=教育においても最優先に開発すべき資質
・「未決状態に耐える能力」=ペンディングに耐える=「中腰」(鷲田先生)
・即断しないで、じっくり状況を観察する。
【格付け機関化する学校の弊害】
*20万人の不登校の子どもたち
・複雑化する生物の自然過程が学校という人為的な制度によって阻まれている。
学校に行くと生きる力が衰弱するということを直感するから、命を守るために学校に行かないことを選択した。
・ノーマルな成熟のプロセスから脱落したんじゃなくて、むしろその子たちの方が生物として自然に生きているのかもしれない・
*今の学校は、子どもの成熟・複雑化を支援する場ではない。
・文科省は。国民の市民的成熟などまったく望んでいないように見えます。
・文科省が子どもたちに教え込もうとしているのは、上位者のいうことに絶対抗命しないイエスマンシップ。「無意味耐性が強い子ども」が作り上げられる。
*学校教育が格付け機関だと、学校の空気はますます忌まわしいものになる。
・子どもたちを同学齢集団内部で相対的な優劣を競わせていると、学習意欲が減退する。
【「お気楽な学校」が必要】
*学校は、査定や格付けの機関ではなく、子どもたちの市民的成熟を支援するために存在するという大筋は、少なくとも保護者は話せばわかってくれる。
【教育の場において最も重要なメッセージ】
*教育の場において最重要の課題:相互に相手の存在を確証し、かつ祝福していく「交話的機能」をどう確保するか。
・学校というのは、何よりも先に子どもたちに社会的承認を与える場。
・「君はここにいてよい。君にはここにいる権利がある。」ということをまず子どもたちにわからせる。
*どうやって不登校の子どもたちに接したらいいのか。
・強い刺激を受けて傷つけられるリスクがなくて、かつある程度社会性は必要とされる低刺激環境を探し出し。
・学校以外のところに、周りの人と関わりを持って、コミュニケーションできるような非競争的な環境を探す。
・学校がつらかったという子は、年齢も性別も職業もまったく違う人たちで構成される集団に入って、そこである種の「仕事」をして、その成果を承認されて、「ありがとう」と言われる経験がとても大切。
・「ありがとう」と言われるのは、生きる上で必須。
「ありがとう」は、「あなたはここにいてよい。あなたはここにいる権利がある。私はあなたがここにい続けることを願う」という社会的承認と祝福を与える言葉。
【競争と格付けと差別化のための部活】
*部活も、競争と格付けと差別化のための装置として利用されている。
・高校生たちが、スパルタンな部活に耐えているのは、楽しいからでもないし、自分の才能を磨くためでもありません。成績として評価されるためです。
・部活の主たる教育的意味が「苦役に耐えることができた能力」をアピールすることにまで矮小化してしまった。
☆以上が、第一講の大事だと思われる部分のメモになります。
いかがでしたでしょうか?
特に大事だと思われる部分を赤字にしておきました。
LEADでやってきた、「成長と合格」という方向性を、上記を意識してさらにブラッシュアップしていきたいと思います。
この中で、大学入試の制度が現実にある中で、子ども成熟・成長を軸にした教育をどう実践していくのかをしっかり考えていきたいと思います。
第二講 単純化する社会
【教師の「プルシット・ジョブ」】
【学校は営利企業ではない】
*70年代の授業料値上げによって、日本の高校生は進路決定権を失い、大学生は「苦学」という選択肢を奪われました。
・大学生は自由度と覇気を失い、学生運動は一気に下火になり、大学は大変管理しやすい場所になりました。でも、それによって、同時に日本の学術的な生産力は深い傷を負いました。
*学校は営利企業ではない。
・株式会社において、経営者に簡単に全権を委任できるのは経営の成否をマーケットが教えてくれるからです。有限責任ですから、倒産したらそれで終わり。だから、ビジネスにおいては気楽にリスクを取ることができる。
・しかし、学校は違います。
簡単にリスクを取ることはできない。学校教育では失敗は許されません。
・学校教育での失敗は取り返しのつかない傷を子どもたちに追わせることがある。
帳簿上に赤字が出ることと同列には論じられない。
・子どもたちが未来においてわれわれの集団を担うことができるまでに成熟することが学校教育の目的です。
だから、「学校教育が失敗した」ということは、未来のある時点で、集団を担ってくれる市民の頭数が「足りない」という事態として可視化される。その時に、「あの時の学校教育は失敗だった」ということがわかる。
でも、わかった時はもう遅い。
・教育政策の失敗のツケははるか後代の日本国民が泣きながら支払い続けることになる。学校教育の失敗は無限責任です。
☆以上が、第二講の大事だと思われる部分のメモになります。
いかがでしたでしょうか?
特に大事だと思われる部分を赤字にしておきました。
LEADでやってきた、「成長と合格」という方向性を、一人ひとりの子どもたちにとっては、「今、ここ」での成熟・成長ががかけがえのないものであることを意識してさら内容を吟味していきたいと思います。
第三講 教師の身体
【学校には「呼びかけ」がある】
*今、学校では小学生から将来設計を書かせて、その目標を達成するために、いつ何を学かまで工程表を作成することを義務付けようとしています。
・それは、子どもたちが学校に期待していることを裏切っています。
・子どもたちが求めているのは、「まだ知らない世界」に入ること、思いがけない冒険に巻き込まれることだからです。
*学校で子どもたちが経験するのは「呼びかけ」です。
・たいていは、「ちょっと手を貸して」という「救護の要請」。
・冒険が始まる時の最初のきっかけ。
・人間は「救護の要請」を断ることができない。
・人間は、他者からの「助けて」という支援要請を聴き取った時に主体として立ち上がる。
*若くして人生の目的が決まって、以後終生揺るがなかったという人もいるかもしれませんけれど、ほとんどの人はそうではない。
何となく気が向いて、ふらふらついていったところで「天職」に出会う。
*『ドリームハラスメント』:高校生が「夢を持て」という教育圧力で苦しんでいる。
・やるべきではない。
【「呼びかけ」を聴き取るために歩く】
*「天職」=vocation/calling(呼びかけの意味)
・自分を呼ぶ声を聞いて、それに耳を傾ける。それによって、人間は自分の召命を知り、転職に出会い、おのれの適正・資質を見出す。
・自分にはどういう才能があり、どういう道に進むべきかは、自分で決定することじゃない。「呼びかけ」を聴き取るんです。
【「詰め込み」が発する拒絶のメッセージ】
*コロナ以後、高校では自殺が増えている。
・「詰め込む」:生徒が授業の内容を理解していようがしていまいが先に進む。
・生徒たちにとってはすごく苦しいこと。
「お前はここにいる資格がない」「君はそこに存在しなくてもいい。存在すること を誰も望んでいない」と言われ続けているようなもの。
・それでは生きる意欲が萎えてきて当然。
・コロナによる「遅れを取り戻す」という仕方で、子どもたちの理解度を無視して、授業を進めていれば、子どもたちが次第に壊れてゆくのは当然。
*「こういう時期なんだから、あわてることはないよ。ゆっくり休んで。健康第一で過ごしてください」と子どもたちに言ってあげることが必要。
*学校教育で一番大事なことは、まず子どもたちを歓待し、子どもたちを承認することです。君はここにいる。ここにいていい。いる権利がある。君がここにいることを私たちは願っている。そう伝えることができたら、学校教育としてはもう上等。
・生きていれば、「呼びかけ」を聴き取って、進むべき道を自分で見つけてくれる。
それまで気長に、のんびり待ってあげればいい。
【機嫌のいい人】
*機嫌のいい人:内外の境界がぼんやりしていて、どこにも「凝り」や「こわばり」や「詰まり」がない。至るところに穴があいていて、至るところに「取り付く島」がある。
・もし先生がそういう人だったら、子どもたちからすると、そばにいてとても居心地がよい。ただ横に座っているだけで、気がついたら、もうふわっと先生の中に取りこまれている。そのテリトリーに受け入れられている。
・そういう自他の境界線の曖昧さが、教育者にはとても大事なんじゃないかな。
*オープンマインデッド:他者に対する開放的な構えであるより以前に、その人自身の中ですでに対話が始まっていることです。
【機嫌のいい人間が同期現象誘発者となる】
*子どもたちが教師の言葉に耳を塞いでいる時は、脳が主導して「シールド」を作っているが、それをどうやって解除するかが、教師にとって喫緊の課題。
・相手に自分でシールドを解除してもらうしかない。
・子どもたちが自分の身体の内側で起きていることをモニターするように仕向ける。
すると、身体の緊張がほぐれ始める。自分の身体の内側で起きていることに気持ちが向くと、外からの入力を弾き返していたシールドが解除される。
*相手に同期してもらうためには、まずもって自分自身の「自己同期」を達成しておけばいい。こちらの身と息と心が調っていればいい。
・より気分のよい人間、より機嫌のよい人間が「先手をとる」。生物は、自分のすぐ近くに、気分の良い状態の個体があると、それに同期したくなる。
・気持ちのよい動き、強く、合理的で、速い動きをしているものが傍にいると、傍にいる個体はそれに「染まる」。
・気分が悪い人間には誰も同期してくれません。
*だから、先生たちには「できるだけ機嫌よくいてください」と繰り返しお願いしているんです。
・先生と一緒に動いたり、一緒に呼吸したり、一緒に笑ったりしたいと子どもたちが思ってくれたら、教師にはその後はもうすることはほとんどないのです。
☆以上が、第三講の大事だと思われる部分のメモになります。
いかがでしたでしょうか?
特に大事だと思われる部分を赤字にしておきました。
これからの教育の方向性について、貴重な手がかりをたくさんいただきました。
子どもたちがこれから人生を歩んでいくにあたって、自分の内なる力・心の奥底にある思い、そしてまだ知らない世界を探っていくことにプラスになるような機会・視野・視座を提供し、そして、呼びかけが聞こえるような場を創っていくこと。
子どもたちが安心して、成熟=メタモルフォーゼできる場を提供していくこと。
そのためには、教える側が、「機嫌のいい」状態で、いること。
リードは、そんな学びの場であり得るように、これからも一層そのシステムを、生徒の皆さんが自律し学ぶ力をつけていくようなLEADシステムとして仕組み化していきます。